「絶不調」まさにそう呼べる時期に僕は何も手につかず、昨日と同じいつもの景色を眺めていた。ふと傍らにあったカメラを手にしファインダーを覗いてみた。それはいつもと同じ風景のはずだった。いや確かにそこにある風景は全く変わらずそこにあるのだ。ところが何かが違う。突き詰めて考える間もなくシャッターを切る。次から次へと気になる物が現れる。それからの僕はただ無心にその行為を積み重ねていった。それはごく自然な日常の流れ作業のように進んでいった。明らかに「僕が変わった。」そう感じた。単に目的と目的の通過点でに過ぎないと思っていた。それなのに流れる車窓の風景、その中の人々、もの、そして偶然の事象ですら僕を引き止める。何と愛おしいのだ。こんな愛おしさを持ってこれらを眺める事など思いもしなかった。それらは仕事の合間でも、移動の車でもヘリコプターの中でも、誰かと話している時でも、僕が起きている時間の全てを通じて、これはとっても言い方がまずいのだが「ウワノソラ」な状態、小綺麗な言い方に代えればそう「無我」に似た状態になった時、写真の神様が 「ほれ撮れ」と言ってポンと背中を押したときに発見できた実に沢山のトレジャー群であったのだ。もし僕が気付かないまま時間が過ぎたとしても、また他の誰かが僕と同じことをしても、それらの人・もの・事象は変わらずそこにある。そしてそれらは僕の存在に気付かない。そしてよもや自分がこう切り撮られるとは思いもせず。今ここにいる自分という存在は、頑張ろうがサボろうが人に影響されようが独り勝手に遊ぼうが第1志望であろうが補欠であろうが条件が悪かろうがお金がなかろうが「うーん、じゃオラこっちにするわ」と最後は全て自分で決めた結果、ようやっとここまで来ることのできた紛れもない正真正銘の最も自分ららしい自分なのだ。
無関係のように見えるあっちのこともこっちのことも、「うれしい」も「しまった」も「ちくしょう」も「やーめた」も「だってー」もそれらの全てが今の自分をつくりあげた必要不可欠なパーツであり事実なのである。そう気付いた時こいつらが愛おしくなったのだ。そして最近レンズを向けた先にある無意識同士がいくつか集まると思いもよらぬ均整が生まれ、それは実に美しく心地よい物である事を発見したばかりのところである。自分の意識を切り捨て相手の無意識を切り撮るのだ。